|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 歌 : [うた] 【名詞】 1. song 2. poetry ・ 川 : [かわ] 【名詞】 1. river 2. stream ・ 国 : [くに] 【名詞】 1. country ・ 代 : [よ, しろ] 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation ・ 目 : [め, もく] 【名詞】 1. (1) item 2. division 3. class 4. (2) piece (in Go)
歌川 国貞(うたがわ くにさだ、天明6年5月19日〔誕生日は、安政2年(1855年)両国中村楼で国貞古希を祝う書画会の礼状の日付が5月21日で、本文に「一昨日は取りわけての御ほねおり御丹青にて無事に相すみ」とあることから逆算。書画会の日をそのまま誕生日と解して良いかについては疑問もあったが、「丹青」は「たんじょう」とも読み、誕生とかけていると考えられる。更に、古希書画会の招待状(版下は山東京山筆)で、5月19日に書画会があったことが確定し、文中に「雨中たりとも御来駕奉希上候」とあり、この日を外せない理由が誕生日だろうと解釈できる(図録(2014)p.9)。〕〈1786年6月15日〉 - 元治元年12月15日〈1865年1月12日〉)は、江戸時代の浮世絵師。のちの三代目歌川豊国。 == 略歴 == 初代歌川豊国の門人。本名は角田 庄五郎(すみた しょうごろう)。後に庄蔵、肖造と改める。号は、五渡亭・香蝶楼・一雄斎、琴雷舎、北梅戸、富望山人、富望庵、桃樹園、月波楼、喜翁、浮世又平、不器用又平など。面長猪首型の美人画が特徴。存命中と没後で評価が分かれる。豊国襲名後は工房を安定させ大量の作品を出版、作品の数は浮世絵師の中で最も多い。その作品数は1万点以上に及ぶと言われる。嘉永6年(1853年)の『江戸寿那古細撰記』には「豊国にかほ(似顔)、国芳むしや(武者)、広重めいしよ(名所)」とある。 天明6年(1786年)、江戸本所の竪川の五ツ目に渡し船の株を持つ材木問屋の家に生まれた〔合巻『赤本昔物語』(談洲楼焉馬作、国貞画、文政5年(1822年))の狂歌堂の序文に「五橋亭琴雷は材木の問屋を業として、是今画工国貞の父也」とある(『歌川国貞』展図録15頁)。〕。生家は亀田屋といい、父は庄兵衛といった。15、6歳で豊国の門下に入り〔飯島虚心 『浮世絵師歌川列伝』〕、歌川を称し、後に国貞と名乗った。五渡亭の号は狂歌師の大田南畝からつけてもらったものといわれ〔『増補浮世絵類考』割注〕〔光明寺墓石の台石に、南畝の書体で「五渡亭 蜀山人 号」とあることによる(図録(2014)p.7)。〕、国貞は他の号を名乗るようになってもこの号を長く愛用している。文化4年(1807年)22歳頃から美人画を描き始め〔文化4年4月の改印を持つ『二見ヶ浦初日の出(仮題)』(大錦三枚続、鶴屋金助版)が現在確認されている最上限の作。『浮世絵芸術』111号、1994年に図版と解説あり。浮世絵芸術データベース で閲覧可能。〕、文政8年(1825年)には艶本の挿絵も始めた。文化11年から文化12年頃の「大当狂言之内」全9枚シリーズを始めとする役者絵は師をも越えた作品と評価された。 英一蝶に私淑しており、文政10年(1827年)頃より使用した香蝶楼の号は一蝶の「蝶」と一蝶の名の信香の「香」を取ってつけたものであった〔『増補浮世絵類考』〕。天保元年(1830年)、英一珪に師事して英一螮と号す〔。歌川広重と合作した「双筆五十三次」においては、三代目豊国が歌舞伎役者などの人物を描き、広重が風景を描いている。この「双筆五十三次」の内、赤坂の画中に英一螮の落款がみられる。天保の改革により、美人画、役者絵にさまざまな制約が加えられたが、改革の抑圧が緩和すると、嘉永頃にはその反動で彫り摺りの技術は一層高度に極彩、細密なものとなり、目を奪う工芸美といえる浮世絵版画が作られるようになっていった。 弘化元年(1844年)、二代目豊国を称した。同門の歌川豊重が二代目豊国を襲名していたので実際には国貞は三代目豊国であり、現在も豊重と区別する必要があることから「三代目豊国」と呼ばれる。またその居宅を以って亀戸豊国ともいう。弘化2年(1845年)、剃髪して名も肖造と改める。弘化3年、三代目歌川国政を養子にして二代目歌川国貞を継がせ、文久2年(1862年)の77歳以降、喜翁と号した。 作画期が長く、その作品の量も膨大なものになっている。五渡亭国貞時代の美人画が、良く時代の「粋」な女性像を表現し得ている。また柳亭種彦『偐紫田舎源氏』の挿絵は「源氏絵」ブームを巻き起こし、歌舞伎に影響するほどであった。この評判に隠れて役者絵は押されがちであるが、質量ともにやはり独自な世界を持っており、ことに大首絵は優れていた。国貞の肉筆浮世絵も見落とせないが、また国貞時代の春画も彼の力量を良く伝えるものであった。代表作として「浮世名異女図会」、「思事鏡写絵」、「当世美人合」、「当世美人流光好」「時世江戸鹿子」、「江戸名所百人美女」、「星の霜当世風俗」などといった美人画シリーズに秀作があり、「豊国漫画図絵」の役者絵30枚も見逃せない。晩年には歌川広重との合作のシリーズものもみられる。元治元年(1865年)に79歳で死去。墓所は亀戸の光明寺にあり、墓も現存している。法名は豊国院貞匠画遷信士。 弟子として歌川貞秀、歌川貞景、歌川貞虎、豊原国周、上方では歌川貞広、歌川貞升などがおり、その画系は明治以降にも引き継がれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「歌川国貞」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kunisada 」があります。 スポンサード リンク
|